・本の話/3!(承前)



 台風が過ぎた翌日は暑かった。
 帆奈は、台風のあとは決まってこうなるのだと飛人に教えて
くれた。朝からのひどい蒸し暑さに目が覚めた飛人は、真名瀬
の小屋の外に出ればいくらかは暑さも弱まるだろうと考えたの
だが、甘い考えのようだった。その日は風はなく、空気もじめ
じめと湿って肌にまとわりついた。
 気候に変化のないティーンズ育ちの飛人には少しこたえる。
25階の暑さにはここ数日たってようやく慣れたかと思ったが、
そうではないことは飛人と帆奈の汗の量の差を見れば歴然とし
ていた。
 だが、タンクトップと短パンというラフな格好でいれば、汗
もそれほど気にならない。それに、目の前の海に飛び込んでし
まえば汗など全く気にならないのだ。
 25階に来てから五日目も、飛人は泳ぎとカヌー漕ぎで半日
を過ごすつもりだった。真名瀬は飛人が起きる前にティーンズ
へ行っている。何をしに行くかは飛人にはよく分からなかった
が、大人のすることなのだからちゃんとした用事があるのだろ
うと漠然と思っていた。
 12歳の少年とはそういうものだ。
 飛人の父の善也は午後からF島へ調査に行くが、午前中は今
までの(なんだかよく分からないがちゃんとした)調査の結果
を整理している。午後からの調査には飛人と帆奈もついていく
ことになっていた。
 泳いだりカヌーを漕いだりしてだらだらと時間を過ごすと、
いつの間にか太陽は高く昇り、正午になった。
 正午になれば帆奈が飛人を呼びに来るのは決まっていた。

            #3

 昼食はご飯と魚の瓶詰め、そして25階で取れた果物だった。
海にまで来て魚の瓶詰めもないだろうと飛人は感じたが、25
階の海に生き物はいない。潮の満ち引きもない。ではなぜ海と
呼ばれるかと言うと――水の塩分濃度が高いためだ。40階の
湖が、魚も泳ぎ、潮の満ち引きもあるというのに湖と呼ばれて
いるのは逆の理由である。
 食事が済むと、飛人と帆奈は善也が準備をしている間にカヌ
ーのところにいることにした。
「そろそろ四月だね」
 先に話を始めるのはいつだって帆奈だ。二人は話しながらカ
ヌーの方へと向かった。
「あと二週間だね。四月になったら中学部へ入学だ」
 中学入学は人生でも特別な年だ。中学部に入れば、13歳の
子供がウマレキヨマリを受けて、生涯の公式の衣装である制服
の袖に初めて腕を通すのだ。7歳の時のシチゴサン、20歳の
セイジンシキと並ぶ人生の節目である。
「何で入学式って四月にあるのかな? 年の始めなら一月の方
が理屈に合ってない?」
「うーん、帆奈は25階育ちだろ? 桜って見たことない?」
「桜……? 前にお父さんと一緒に見たことがあるけど、25
階には育たないから、あんまりよく分からないな。それがどう
したのよ」
「ティーンズには木は生えないけど、学部の入学式ってみんな
9階でやるだろ?」
「そう言えば小学部の卒業式も9階でやったねー」
「あそこ、桜を植えてあるんだ」
「だから何で桜なんだってば」
「四月のはじめは桜が咲くから、四月に入学式をやるんだ」
 と、飛人は父が言っていたことを思い出しながら話した。
「転校前から、学部の入学式は四月だったらしいよ」
「ふうん。やっぱり17階育ちは違うね」
 その帆奈の何気ない一言に、飛人はあわてて否定する。
「いや、そんなことないよ。たまたま知ってただけだよ」
 飛人は帆奈に「17階育ちの頭でっかち」だと思われたくな
いのだ。25階の海の世界で育ち、風のにおいを嗅いだだけで
台風の接近を知るような少女の目には、17階の廊下と部屋だ
けの世界で育った少年は軟弱に写るだろうと感じる。そして、
それは厭なのだ。
 12歳の少年とはそういうものだ。
「でも、やっぱりここよりいろんな物があって楽しいでしょ。
25階は海しかないから」
 他人の弁当はうまく見えるものだな、と飛人は思う。
「そうだ、中学部に入ったらどうせティーンズに行くんだし、
あたし17階の中学部にするよ。そしたら飛人にいろいろ案内
してもらおう」
 飛人はその言葉の意味を飲み込んでから、ちょっと血の気が
引いた。帆奈が――同じクラスに!
「そ、それは駄目だ。絶対駄目!」
 これは一大事だ。なんとしてでも止めなければならない。
「なんでよ。別にいいでしょ」
「いや、とにかく駄目だって! 別の階に行った方がいいよ!」
 何ということだ! 25階の牧歌的な世界で育った帆奈には
今のクラス内の空気が分かっていないのだ!
 ちょっと前までは何の気なしに過ごしていた男女が、ここ2
年ほどで急速にぎくしゃくした関係になっていて、誰か特定の
異性と仲良くしようものなら、クラス全員に冷やかされると言
う恐ろしい事実が!
 もちろん、誰かにそういう噂が流れただけで他の者は冷やか
しに参加しなければいけない。それが事実か否かは関係ない。
もしも疑惑の人を擁護しようものなら、同類だと指摘されて、
まっとうな生活が出来なくなるに決まっているのだ。飛人にも
冷やかしに参加した経験はあり、渦中の人の泣き顔を見て罪の
意識にさいなまれたこともある――が、どうしようもないのだ、
世界の法則がそのようにできているのならば!
 だから、帆奈が同じクラスに入るのは何としてでも阻止せね
ばならない。帆奈は飛人になれなれしく話しかけてくるに違い
なく、そうなれば飛人は身の破滅だと考える。
 12歳の少年とはそういうものだ。
「だからー! 何で駄目なのよ! 理由は!?」
「えーっと、だから……とにかく駄目! 来るなって!」
「いや、絶対行く! 絶対行くからね!」
「だからマジ駄目なんだって!」
 二人の声はだんだん険悪になってゆき、善也が調査の支度を
終えてカヌーを置いてある浜に着いたときには、怒鳴り合いに
なっていた。

             #3

 結局、飛人は残った。
 飛人が行きたくないと言えば帆奈は行くと言い、帆奈が行く
と言えば飛人は残ると言った。
 砂浜の、木々の陰になっているところに座り込みながら、飛
人は心の中で悪態をつき続けるのだった。
(帆奈は何もわかってないんだ)
 日焼けしてむけた二の腕の肌を剥がしながら思う。
(25階と17階は違う。こんな天井も壁もない世界と、ティ
ーンズでは全然違う。……ずいぶん日焼けしたな、俺)
 腕の皮は面白いようにはがれる。おそらく背中も凄いことに
なっているのだろう。
(17階に帰ったら、みんなに自慢できるな、この色は)
 腕の外側と内側の色が大きく違うのが面白かったので、飛人
はしばらく自分の腕を眺め回していた。日にあまり当たらない
腕の内側は白く、よく焼けた外側とのコントラストはある種の
魚を思わせた。
(でも帆奈はもっと色が黒くて、腕の内側も同じ色だ。ああ、
あれなら25階の海で育った世間知らずで通って、俺に話しか
けても変に思われないかもしれない)
 そう考えると、帆奈が同じクラスにいるのはわりと楽しいこ
となのかもしれないと思えてきた。帆奈も周囲の状況に気づけ
ば、ちゃんと距離を置いた態度をとれるかもしれない。
(いや、かもしれないかもしれないでは危険すぎる。それに、
あいつのことだから25階で二人で過ごしたことを馬鹿みたい
にみんなに話すに決まっている。第一、今更どうやって帆奈に
17階に来てもいいなんて言えるんだ?)
 もちろん12歳の少年にそんなことが言えるわけもない。
(でも、やっぱり帆奈のことだから一日たったら全然怒ってな
くなるのかもしれない。あれほど怒ってるのが続かないやつは
初めて見たもんな。
 ……足音? 帆奈のおじさんが帰ってきたのか?)
 飛人は砂浜を近づいてくる足音に振り向いた。
 見知らぬ男が歩いてくるところだった。男は25階の猛暑の
中を、鈍い色のつば広の帽子と、同じ色の外套を着て平然と歩
いている。両肩にはそれぞれ、全身が黒い色の鳥をとまらせて、
杖というには少し長すぎる棒のような物を手に持っていた。だ
が、杖が必要だとは思えないほどしっかりした歩みだ。
「真名瀬君のお子さんは、娘さんだと聞いていたが」
 男は十分に近づいてから口を開いた。帽子の下は陰になって
いるが、白い髭を口の周りと顎に伸ばしているのが見て取れた。
飛人は男の右目が絶えずつぶられているのを奇妙に思いながら
答えた。
「ええと、真名瀬さんは今ティーンズの方へいっていて、帆奈
はここにいないです」
「なるほど、帆奈というのが真名瀬君の娘さんの名前だ。では、
二人ともティーンズへ行ってしまったのかな」
 飛人は男の肩の鳥に気を取られながら――鳥というのはあま
り見たことがない、特にこんな近い距離では――答えた。
「いえ、真名瀬さんは一人でティーンズに行って、帆奈は俺の
お父さんとF島に調査に行ってます。あ、俺の名前は榎木飛人
といいます」
男は含み笑いをしながら、
「これは自己紹介をありがとう。私は押川と言う。じゃあ君が
榎木君の息子だね。榎木君もここに来ているのか」
 飛人には押川という名に聞き覚えがあるような気がした。
「うん、そうですけど、俺のお父さんを知ってるの?」
「ああ、君のお父さんと真名瀬君は私の教え子でね。私が先生
で二人が生徒だったということだ。ここ、座っていいかな?」
「あ、はい、どうぞ。あの、押川って、押川蓮太郎ですか」
 飛人が質問すると押川は困ったように笑った。
「違うな。私は蓮太郎ではないよ」
「そうですか……。でも、右目が」
 押川蓮太郎に右目がないのはよく知られている。だからこそ、
飛人はこの右目を固く閉じて開かない男が押川蓮太郎ではない
かと推測したのだが。
「彼も右目を子供の頃の事故で失っていたからね。私も、偶然
だけど事故で右目を失ってしまったんだ」
「そうなんですか。俺は押川って言って右目がない人だから、
押川蓮太郎かと思いました」
「そんなに年をとって見えるかな。押川蓮太郎は私の父で、父
と言っても義理の父だが、もう……64にもなるかな。私はま
だ45歳だよ」
「あ、はい、そうですか」
 だが、飛人には64歳と45歳がどう違うのか理解できない。
12歳の少年には、大人の年齢の違いはよくわからないのだ。
「この烏が気になるかな?」
 押川が飛人の視線に気づいて言った。
「カラス?」
「そう、烏。正確には烏ではなく渡り烏」
 押川は左肩にとまっている烏に右手の人差し指を近づけた。
烏は鳥類特有の機械のように素早い動きで首を傾げ、押川の指
先を軽くつつく。
「名前は、こちらがフーギンでこちらがムーニン。押川蓮太郎
から受け継いだんだ。今日は連れてきていないが、二頭の狼と、
馬が一頭も受け取った」
 飛人は、烏も狼も馬もよく知らない。第一、これらの動物は
転校前の世界の生き物のはずなのだ。それがこうして目の前に
いるということは――。
「デーモンなんですか?」
「さあ、どうだろう。私は押川蓮太郎から動物達といくつかの
持ち物を受け継いだが、彼は何も言っていなかったし、少なく
とも私は契約した覚えはない。でも、この子たちには何か特別
なことができるみたいで、私に教えてくれるんだ。
 例えば―――」
 それまで微笑みながら話していた押川が、急に深刻な顔を見
せた。フーギンと呼ばれた烏のくちばしに耳を近づけ、それっ
きり押し黙る。
 飛人は何か得体の知れない不安感が下腹部の方からせり上が
ってくるのを感じた。
「どうやら、もうすぐ台風が来るらしい」
 押川が言った。

             #3

「台風? 台風なら昨日来たばかりですけど……」
 反論しつつも、飛人は押川と彼の烏が言うことに間違うこと
はないのではないかと感じていた。
 この人は、きっと何でも知っている人だ。
「それは解っている。私は昨日の台風のおかげで、この島に来
るのを一日待つことになったのだからね」
「でも、本当なんですか? この島に住んでいる人は台風にな
るのがわかるらしいけど、帆奈も帆奈のおじさんもそんなこと
は言ってなかった!」
「そうか……。だが、この烏は私に嘘を言ったことはないんだ」
 そして、飛人は理屈もなく、それが真実だと知っていた。
 二羽の烏の黒い目は、深い知性をたたえて飛人の方へ向けら
れている。少なくとも飛人にはそう思えた。
「でも、じゃあ、お父さんと帆奈はどうなるの!?」
 台風が来る日は、間違っても海の上に居てはいけない。
 海の上にいるということは、死ぬということだ。
 死ぬ――帆奈と、お父さんが?
 それは――駄目だ!
「俺、知らせに行きます!」
 現在飛人がいるC島から二人の行っているF島までは、カヌ
ーで1時間はかかる。もし海の上で台風が接近したら、近くの
陸上まで行くのに間に合わないかもしれない。間に合うかもし
れないが、間に合わなかったらどうするのだ。それに、帆奈は
台風が来ることを知らないので、台風が起きるまで気のせいだ
と思って何も手を打たないかもしれない。気づくかもしれない
が、気づかなかったらどうするのだ!
「真名瀬君はどうなんだ?」
 押川がやや早口で、しかし落ち着いた様子で聞いた。
「え!? ええと、いつ帰ってくるのか分からないです!」
「そうか、では私はここからA島へ、私の乗ってきた船で向か
おう。もし途中で真名瀬君に会えば知らせることも出来るだろ
う。A島までは私なら20分でいけるが、F島までは――おそ
らく君の方がカヌーの漕ぎかたがうまいだろう。わたしはそれ
ほどカヌーに慣れていないし、あれほどの距離となれば真っ直
ぐに漕げる自信がない。台風が一時間後に来るのか五時間後に
来るのかは知れないが、明日や明後日に来るのではないようだ」
 そういえば、少し風が吹いてきたようだ。水平線のあたりに
今まではなかった雲がわき上がっているのが見える――ただの
雲かもしれないが、ただの雲ではないかもしれない。
 飛人は一つだけ浜に残った一人用のカヌーに飛びつくと、全
力を込めて海の上に押し出した。
 そして、押川に声もかけずに力一杯カヌーを漕ぎ出す。
(急げ! 走れ! 走れカヌー!)
 あとは心の中で叫ぶのみだった。

             #3

 F島は、ちょうど真名瀬の小屋のあるC島と学校のあるA島
を結ぶ線の延長線上にある。だから、飛人は時々振り返って、
出発したC島の上に長く空に伸びた学校が重なるようにあるの
を確認すればよかった。多少ずれたとしても、何もない海の上
のこと、近く1km以内に船影があれば飛人の視力でも見つけ
るのはたやすいはずだ。潮の満ち引きのない25階の海は風が
なければほぼ凪だ。波間にカヌーが隠れて見えなくなる心配も
あまりない。
 風、風は出てきている。雲はよく見ると風の吹く先の空に広
がり始めている。
 台風が近づいてきているのは間違いないように思えた。
(台風! 台風の勢いは知っている。何しろ昨日見たばかりだ。
凄い早さで海が荒れて、波の下には何か得体の知れないものた
ちが泳ぎ回り、海の上に浮かぶ人も船もみんな噛みついて引き
裂いてしまう。あんなものの近くにいてはいけない!)
 そう思って波の下をふと見ると、島の近くでは透明で底の砂
に陽光がゆらゆらと揺れていたあのきれいな海が、沖合いに出
たとたんに底の知れない青緑色の深みになっているのに気づく。
 人の視線の進入すら拒む、あまりに異質な世界だ。
(海、海って何なんだ? 何でこんなものがあるんだ?)
 心臓がばくばくと破裂しそうなほど脈打っているのは、猛烈
な運動のせいだけだろうか。腕ががくがくと震えているのは、
時間の感覚も無くなるほどのあいだカヌーを推し進めさせてき
たからだけだろうか。
 ふと気づくと、飛人は周囲に何もない、だだっ広い海の上を
ただ一人ちっぽけなカヌーに乗っているのだった。
 海は理不尽で理解しがたい巨大さを持って存在する。飛人と
いう12歳の少年は異質なものへの何の防護もなしに、カヌー
の底の頼りない板一枚をへだてて、その海のただ中にいるのだ。
 いくつか見える島影と、天を衝く学校の白い柱のような姿が
なければ、気が狂ってしまうと思った。
(何も考えるな! 何も考えるな!)
 だが、駄目だった。一度でも足下に広がる巨大で異質なもの
の存在に気づいてしまえば、もう忘れることも無視することも
できない。そして、こちらが気づいたということは、向こうも
こちらに気づいたということなのだ。
 カヌーを漕いでいた飛人の手が止まった。
 心臓の鼓動は、これ以上速まれば破れそうだ。
 押さえがたい手のふるえは全身に広がった。
 吹き出る汗は、運動の水汗ではなく、じっとりとした脂汗だ。
 手先や足先から血の気が引いて冷たくなった。
 みぞおちの下あたりが、見えない手に握られたように感じる。
 海は、想像することすら拒むほどの深みをもって、飛人には
理解することのできない形態の、言語にすらなりえない原初的
な恐怖を飛人の心に侵入させて――――

 ――――もちろん最初に相手の船に気づいたのは帆奈だった。
F島の調査から返ってきた善也と帆奈は、C島へ帰る道のりの
半分ほども行かないところで、遠くに見える船を確認した。
「おーい! どうしたのー!?」
 近づいてみればもちろん飛人だ。帆奈の目で顔が見える距離
まで近づいてから大声で呼びかける。
 飛人は声がかかる直前に手を止めていたが、その声にびくっ
と一瞬だけ反応すると、顔をあげて善也と帆奈のいる方向を見
つけた。そして、そちらの方向へ漕ぎ出す。
 善也は飛人の様子が緊迫しているのを感じた。
「どうした、飛人! 何かあったのか!?」
 カヌーを漕ぎながら飛人は叫びかえす。
「台風が! 台風が来るんだ!」

            #3

 肩で息をしている飛人を善也と帆奈が乗っていたカヌーに移
すと、三人はF島へ向かった。飛人が乗っていたカヌーはここ
に放棄するしかなかった。
 この場所からは来たばかりのF島が一番近い。
 飛人はぜいぜいと息をつきながら、大人の腕力で進むカヌー
の速さを感じていた。
「でも、二日続けて台風が来るなんて聞いたこともないよ!」
 帆奈が不安げに雲を見ながら言った。彼女の中のあらゆる感
覚は、もうじき台風が来ることを経験から察知していたが、同
じく経験に裏打ちされた知識は台風が一月以上の間をおかずに
発生することを否定していた。
「私は押川さんを知っている。飛人の話によれば、それは間違
いなく押川さんだ。あの人は信用できる」
「わたしも、お父さんも、ここで育ったの」
 だが、そう言う帆奈の声には自信がなかった。この25階で
育ったからこそ、わき上がる雲、強く吹きはじめた風、空気の
匂いから、台風がすぐそこに――本当にすぐそこに迫っている
ことを感じているのだ。
「帆奈君……、25階を含めたこの世界にはね、まだわからな
いことがいっぱいあるんだ。いや、わかっていることなんて、
ほとんど無いようなものだ。百年にいっぺん起きることがある
かもしれないし、千年ごとに必ず起きることもあるかもしれな
い。転校前の世界では、何百年、何千年もかけて世界を知ろう
としたが、知れば知るほどまたわからないことが出てきたのだ
そうだ」
 飛人の鼻の頭にぽつりと水滴が当たった。
 もう、台風は、文字通り目と鼻の先に来ているのだ。
「ましてや、我々はまだ転校してから50年もたっていない」
 善也が言い終えた頃、遠くの沖の方で、海がぞわり、と揺れ
た。その海域を中心として、海がしぶきを立てて荒れだし、周
囲に広がっていった。
 台風が始まったのだ。
 善也はさらに力を込めてカヌーを推し進めた。もうF島は目
の前に来ている。
「台風が!」
 飛人が叫ぶ。
「わかっている!」
 善也は叫びかえした。そして、
「大丈夫だ」
 と声を落として付け加える。
 善也も焦っているのだ。思わず怒鳴りかえしたが、大人は子
供達を安心させねばならない。
 だが、そういう声の調子の変化の裏を飛人は気づいている。
 12歳の少年とは、そういうものでもあるのだ。
 すぐにカヌーはF島に着いた。善也は砂浜になっている部分
にカヌーを乗り上げさせる。飛人と帆奈はすぐに島の奥へ駆け
出そうとするが――
「駄目だ! 船を押すんだ!」
 善也が止める。
「え!? でも間に合わないよ!」
 台風の海はもう近くまで迫ってきている。後ろを振り返ると、
荒れる波が恐ろしい速さで追ってくるのが見えた。波間には、
何か白っぽいものや、濁った青色のものなどが見え隠れする。
「船がないと帰れない! 大丈夫だ、三人で押せばすぐだ!」
 そういって善也は船を押し始める。帆奈と飛人もすぐに船に
取り付く。
 足下の波が激しく揺れ始めた。
「行くぞ! 1! 2の!」
 台風の牙がすぐそこまで迫って――
「3!」
 カヌーが完全に陸の上まで揚がった。駆け出した勢いで三人
は砂浜に転がる。
 いままでカヌーがあった海面は、台風の波の下の化け物達で
埋め尽くされていた。お互いに共食いを始めるその姿が泡立つ
波に遮られてよく見えないのは幸運なことだった。
 カヌーが少しでも水に接していたら、あれらに喰いちぎられ
ていたのに違いない。
 三人はカヌーを陸地の奥へと安心するまで引きずると、島の
少し奥地にある岩場へと向かった。そこには、先ほどの調査で
帆奈が見つけた洞窟のようなものがあるのだ。奥行きは10m
とないが、雨風をしのぐには十分だ。そして――
「これを調べていて時間がかかった。どのみち、明日も来る予
定だった」
 と、善也が飛人に示したその先には、奇妙なものがあった。
 最初、飛人は死体かと思った。すぐに、それが服だけが人の
形にくずおれているとわかった。その服は、制服だった。転校
以来、人々が公式な衣服として着用している、あの制服だ。
 男物の制服だったが、ただ、スラックスの左膝の下からが何
かに食いちぎられたように無くなっている。
 食いちぎられたのではないかもしれないが、台風の海を間近
に見た後では、食いちぎられたのだとしか飛人には思えない。
「父さん、これ、なんなの?」
「何だろうな」
 善也は答えると、背負っていた防水カバンから古びた手帳を
取り出した。
「この服のすぐそばにあったものだ。読んでみるか」

            #3

 それは、榎木律也、最初の転校世代、学校史の教科書に名を
残す探検家にして、転校初期の戦乱のデモノロジイの祖、そし
て何より善也の父、飛人の祖父である、その人の残した最後の
手記だったのだ。
 彼は転校歴14年、つまり今から33年前に、25階の探検
中に行方不明となっている。その日は台風が確認された最初の
日でもあった。
 飛人が手帳を読み終える間、善也は防水カバンの中から短め
の刀を取り出して調べていた。帆奈は横から飛人の手の中の手
帳をのぞき込んでいた。
「ロノベ……? 72柱の、ソロモニックデーモンの1柱じゃ
ないか……!」
 飛人は目を上げて父の持つ脇差しを見つめた。関孫六兼元。
転校初期の戦乱の時代、榎木律也の手の中にあって彼とともに
戦ったという名刀だ。手入れもされずに33年間も放置されて
いたはずなのに、刀身に曇り一つもない。
「その剣に、ロノベが焼き付けされているんだ……」
「なにそれ、すごいの?」
 黙って手帳を読んでいた飛人に遠慮していたらしい帆奈が、
口を開いた飛人に質問を返した。
「なんだよ、ちゃんとデモノロジイ勉強してたのか? ロノ
ベっていったらソロモニックデーモンの1柱だぞ!」
「そんなの覚えてるわけないでしょ……」
 急に声を弾ませだした飛人にちょっと面食らいながら帆奈
は答えた。
 だが、飛人はもう帆奈との会話など忘れて手帳を食いいる
ように読み始めている。帆奈に比べて飛人は文字を読むのが
早いので、ページをめくられる前に帆奈も急いで続きを追い
かける。

「わが命運尽きるとも、夢は後進に継がれると…………」



	


本の話の第三話の後編です。 なんと前編を書いてから半年近くも過ぎています。これはすごい。 自分的大冒険としては、思春期の揺れる心情の描写に挑戦! というバクチにも似た大勝負に打って出たのですが、 海だけに轟沈と言ったところでしょうか。 陸なら擱座、空なら撃墜、宇宙なら堕天でしょうか。 僕は何を言っているんでしょうか。 あと、海の怖さを表現したかったです。海怖いです。 きっと足の下に何か得体の知れないものが泳いでるに違いない。 ああ海怖い。本気で。


     
このページのTopへ戻る

     蟹通トップページへ